思考するブログ

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高齢者向け福祉の縮小は人生定年制度と一緒にしないと結局若い世代が苦しいのではないかという話

「年金を減らせ」だとか「医療負担割合を増やせ」だとか高齢者になんとか金を払わせようとする声が、少子化が進むとともに増加している。

 

しかし昔の高齢者はほとんどの人が子をなしているため、高齢者の下には現役世代や若者がいるのである。

国がさまざまな補助を打ち切りにしたとて生きている以上金はかかる。

その分の負担を本人にさせようというのが理想ではあるが、それが出来ない場合はどこに負担が流れるだろうか。

もちろん子に流れその影響は孫に及ぶこともあるだろう。

それでは本末転倒ではないだろうか。

 

おそらくだが、若い世代が払う社会保険料くらいで自分の親の老後を賄うのはまず無理である。

一人っ子で両親が健在であった場合は子が地獄をみることになる。

 

もし高齢者へかける公費を減らしたいのであれば、まずやるべきは人生定年制度"尊厳死"の導入から始めるべきである。

金を絞れば暮らし向きが苦しくなることは容易に知れる。

若い人はそれでも楽しさを見出し夢や希望を抱く機会もあろうが、高齢者は親や友人を見送る立場にあり楽しみは子や孫の成長という人も少なくない。

そんな愛すべき存在の負担になってまで生きたいと思う人がどれだけいるだろうか。

 

それは高齢者に限らず大病を患いやりたいことができなくなったもの、子がおらず愛すべき人を亡くし希望を失ったもの、様々要因があり"死"が救いになることがある。

 

人は誕生する際有無を言わさず生み出される。

死ぬタイミングくらい自分で決めてもよいのではなかろうか。

いつ死ぬかがわかっていれば人生設計のなんと立てやすいことか。

個人的にはメリットしかないと感じている。

 

私自身が希死念慮と勘違いされるほど"いつ死んでも良い"と考えている人間なので、自分で自分の面倒が見られなくなったらどうしたいかという選択肢は欲しいと感じている。

 

考えてもみてほしい。

老化とともに歯が抜けて食べたいものが食べられなくなったり、体力が落ちて旅行にいけなくなったり、手先の動きが鈍ってゲームだなんだとできなくなって、友達はどんどん寿命を迎えていくような環境でなぜ生きたいと思うだろう。

 

よほど人生を謳歌している人ならば国からの助けなどなくても生きるだろう。

生きてほしい、と思う人が金銭的負担をするはずだ。

ただ私は自分の周りに"お金を払ってでも生かしたい"という人は親以外にないと感じている。

私自身も他者に向けてそう感じることはない。

おそらく今後愛すべき人を見つければその人に何かあれば養ってでもそばにいてほしいとなるのであろう。

 

そこまで考えるなら自分で自分に決着をつけろと思うかもしれないが、案外死に場所というのはないもので、どこで死んでも誰かの迷惑になるのである。

唯一許されるのは介護施設や病院くらいではないだろうか。

それならばそういった施設において適切な処置をされたうえで終わるほうが良いではないか。

 

年金を減らしたり医療費負担を増やすことは、稼ぐ手段の潰えた高齢者にとって死を意味するということはよくよく考えるべきである。

もしそのようなことをするのであれば、苦しいまま生きさせるという酷なことはせず終わりを迎える権利も与えてほしいものだ。