謝罪されたら許さないといけない、という先入観
一瞬目にした記事で保存していなかったのが悔やまれるが、フワちゃんや元フリーアナウンサーの川口ゆりさんらの炎上を踏まえ「謝罪しても許されない窮屈な世界になりつつある」といった内容であった。
個人的には「謝ったら許される」という考えこそが危ういと感じる。
「ごめんで済んだら警察はいらない」というのは最早死語なのだろうか。
幼少期多くの人は教師に「謝りなさい」「ごめんなさい」「はい、これで仲直りね」をやらされてきていると思うがそれで納得しているだろうか。
謝罪を受けても納得できずムスッとしていると、教師に「謝ったんだから許してあげなきゃダメ」などと叱られることさえある。
私の経験上そうやって"許されてきた人"の謝罪は年々軽くなっていく。
最初は神妙な表情をしていてもそれが装いになり「ごめーん」のような言葉だけのものになっていくのだ。
さらには「謝ったんだからもういいだろう」と加害者側がのうのうと発言するようになる。
それでも多くの人は幼少期に刷り込まれた「謝られたら許さないといけない」という先入観で心では許していなくても「いいよ」と言うしかなくなっていく。
我々は幼少期より"寛容であること"を強要されているのだ。
寛容というのは「他者の考えを否定しない」程度のもので十分だと考えている。
「相手の過失をとがめず許す」ことまで求められるとその範囲はどこまでも広がりゆくゆくは犯罪さえも許さねばならぬことになってしまうのではないか。
そうなったら本当に「警察はいらない」となってしまう。
もちろんそれは極論であり実際はそうならないだろうが、ではどこまで謝罪で許すラインなのかを誰が決められるだろうか。
その権利を有するのはやはり被害者側であると考える。
学校教育の場でもきっちり教育すべきは「許すか許さないかを決めるのは被害を受けた人」ということだ。
面倒ごとを片付けるために謝罪と許しを強要する教育の果てが今の歪んだ世界のように思う。
基本的に謝罪と償いはセットであるべきだ。
"償い"が出来ない幼少期には「今回は〇〇さんが優しさで許してくれたけど、本来であれば謝って済むことはないよ」と教えなくてはならない。
そして段階をつけて徐々に"償い"を科していく必要があるだろう。
「子どもがすることだから」といつまでも許していては成長しえない。
学年という区切りが存在するのだから、その学年に応じた"償い"を意識させることで攻撃的な行為を減らすことができるのではないだろうか。
少なくとも「謝っても許されないことは往々にしてある」という学びはさせておかなくてはいけない。
決して「許しの強要」を先入観として植え付けてはいけない。
その陰では泣く人が必ず出てくる。
被害者をさらに傷つけるようなことはあってはならないのである。